日記以外の文章を書くことができないのは、日記以外のことを書くのが恥ずかしいからなのだろう、僕は特に自分の日々の生活を特に恥じてはいるわけではないが、それ以外の細々としたこと、たとえば僕は身長は高いほうではないのだけれど、その身長に比しても足のサイズが極端に小さく、ほとんど畸形的といってよいほど。足に対する強いコムプレックスが心を台無しにしてしまった、というわけだが、ところで、足にまつわる言葉はなかなかおもしろい言葉が多く、たとえば「纏足」「扁平足」「外反母趾」など、通りすがりにちょっと聞いただけで思わずヒステリックな笑いを笑うのに十分なものだと思えるのだが、もちろんそんな言葉に僕が涙/涎/洟を流して笑わずにはいられないのは、自分の足が畸形的だという負い目(何に対する?)があるからに決まっている。ふつうはそんなことでは笑いはしない。日記以外のことを書くということは、僕にとっては(比喩的にいえば、ということだけれども)自身の足のサイズについて詳細に語り、コムプレックスを刺激し、憂鬱になり、赤面するということなのだ。それはいかにもつらいことではないか。だから(なにか書くのであれば)日記を書くしかないのだろう、足から目を逸らすために。言ってみれば(言うんだけど)「まっすぐでないものから逃げだして、日々の生活をまっすぐに記録するのだ、まっすぐでないものから逃げ切るために」。

最近はひどく冷え、電話がまったく鳴らない。吉本隆明の「一九四九年冬」って寂しい詩だねえ、などと独りごちながら、炬燵に片足を突っ込んで、もう片方の足は炬燵の外に出して冷やし、両足の温度差を人為的に大きく広げて遊ぶのが休日の楽しみである。右足はちょっと温かく、左足は僕から独立したように冷え冷えと麻痺するので、バシバシと左足を叩き、叩き起こそうとするが、すんなりとは起床せず、なかなか動いてくれない。死んでいるようだ、と口にしてみるものの、もちろん、死んではおらず、ただただ純粋に冷えているだけなのは知っている。だからこその遊戯だろう(つまり、壊疽というのは、きっとシャレにも遊びにもならないことだと思うから)。

というわけで2月は『涼宮ハルヒの消失』(おもしろかったですが、もっと長門スキーであればよかったのにと思った)を観に行った程度で、あとは寒さに負けて部屋のなかで、お白湯を啜りながら本を読むばかり。最近読んで印象に残ったのは、飯田泰之雨宮処凛『脱貧困の経済学』山本譲司『獄窓記』
『脱貧困の経済学』は冒頭に雨宮さんのいかにも左翼的といえばいいのか、僕も経済学についてはとんと無知だけれど経済学的な観点からすれば大きく逸脱しているだろう要求(質問)を飯田さんに突きつけ、その後二人の対談が進んでいくうちに、最後に飯田さんの雨宮さんに対する回答がとりあえずの形で示され、だからこれはどちらかといえば飯田さんの本なのだろうと思う。だってこの本では雨宮さんはべつに雨宮さんでなくてもかまわないのに対し、飯田さんのクリアーな回答は稀有なものだと思うから。彼の本は『経済学思考の技術』『歴史が教えるマネーの理論』も、とても親切で分かりやすかったけど、対談だからなのか、より明快に感じられる。本の作りとしても非正規従業員数の変移、ジニ係数の各国比較、再分配政策による貧困率の移動などのグラフが多く入っていて説得的だし、何より理解が容易になるという点でポイントが高い。総じて非常に親切な本。
『獄窓記』は同じ著者の『累犯障害者』にけっこうな衝撃を受けたので、読んでみた。刑務所が福祉施設と化していること、また障害者は刑務所のなかにおいて(も)隔離されていること、刑務所の運営方法、などシャカイイシキが高い人にも勉強になるところは多いだろうけれど、単純に刑務所という異界を常人がどう見たかというドキュメンタリーとして単純に楽しめる。