「私のママン」(3)

記憶を遡ってそこから更に数年前、草原と砂漠の国からやってきた怪力無双の横綱がまだ健在だった頃、ママンはもう少し楽しく相撲を観ていたような印象が私にはある。ママンはたぶんあの横綱のファンだったのだ……私もそうだった。遠いむかし、実際、テレビなんかじゃなくって、私たちは両国(あそこって東京? ひょっとして千葉?)の国技館(というと両国以外の国技館があるような言い方だけど、そんなのあるの?)に行って、大相撲を観戦したことがある。夢のような時間。夏は終わっていたけれど、まだ残暑が厳しかったから、私の汗もきらめいて。相撲、それは剥き出しの闘争であり、同時にスポーツでもあり、舞踏であり、様式であり、逸脱であり、そしてそのいずれでもなかった? わからない。相撲ってなんだろ? 「相(あい)、撲(なぐ)る」と書いて「相撲」、それともレ点で折り返して「撲りあい」? いまではそんなふうに漢字を分解して不完全であれ、わかったふりくらいはできるけれど、もちろんそんなの何か言っているようで何も言ってはいないのだし、当時は相撲を「相撲」と書くことだって知らなかったのだし、相撲の何たるかについて深く考えることもしなかった。いまだってそれほど考えない。大事なのは肉体のぶつかりあい。ぐねぐねと二つの肉体が揉み合っている様子。官能にほど近い肉感の顕在。危うさを孕んだ均衡の観念。もちろん左のような言葉で相撲について考えていたわけではないけれど、あの頃の心の躍動を言葉で表せばそんな感じではあったように思う。そして力士たちの頂上にいる横綱の圧倒的なちから。単純素朴なエネルギー。大事なことだからもう一度言おう、「単純素朴なエネルギー」、単純素朴なエネルギーだ、それに私は魅入った、魅入られた。幼い頃というのは純粋さからか愚かさからか、やはりシンプル、ストレートでストロングなパワーとエネルギーに憧れを持つものなんだろうし、それは私も例外ではなかった。だから横綱、力持ちの。逃げない。ふっと横に躱して足を引っかける、などとせこい真似はせず。だって、だっだらだっだらどたばたた、と逃げ回って隙をついて足をひっかけるなら柔道でもやっていればいいでしょ? 相撲である意味がない。相撲ならがっつり。正面から組んで。エイヤっと放り投げる、これだね。「そうでしょ?」「技術を排したところに相撲の美学があると、そういうことを仰りたいのかしら、この子は?」「いや、そういうことじゃないし、それに相撲は技術だよ。つまりね、どういったらいいんだろう、単純にいっても腕と足があって、作用と反作用があるわけ、要はバランスの問題。でね、人間は、どうしてもバランスを取ろうとする習性がある、相撲においてはとりわけ。なぜって転んだら負けだから。で、そのバランスを取ろうと元通りにしようとする筋肉のこわばり、すらも利用して、相手の向かう力の方向に沿って、ぐねりと腰を入れてやると、エネルギーが2倍だからさ、2倍っていうのは自分のぶんと相手のぶんってことなんだけど、思ったよりも元に戻ってしまってしまうどころか勢いもついちゃって、止められないんだよね、これがバランスが崩れるってこと。足がぐねぐねになるのね、比喩的にいえば、いや写実的なのかな。それを最初から、あるいは仕掛けている途中で強い力士っていうのは見通しているし、コントロールしているんだ。力を身体の幾点かに分散させることで。がっつり組んで、二人が動かないとき、つまり拮抗しているときね、均衡状態、そのときですら、そのときこそ、二人の力がね、衝突して弾けてゼロになったり、左に振れたり、右腕の衰弱を首筋と左の腿で補ったりしているのがよくわかるよ。それってものすごい技術だし、やっぱり相撲は技術だよ、少なくともそういう側面を否定できないと思うな」「……まるで見てきたかのように言うのね!」「見てきたよ、ずっと見てきた」
(つづく)