「私のママン」(2)

それはごく短い時期に過ぎなかったんだけど、まだ私がただの子どもだったとき、少なくともそんなふうにしか意識していなかったとき重要だったのは、自分が本当に両親に望まれて生まれてきた子どもだったかどうかだったんだけど、表層的なことをいえば16年前の記録を見るに、私の誕生は祝祭の輝きで世界を(といっても限定的な)満たしてはいたのだと思う、もちろんそんなことはどうでもよい話。大事なのは、パパンとママンは誰からも望まれずとも、子どもをもうけたかどうか、生まれた子どもが男だったらと一度でも考えたことがなかったかどうか。だけど、実際、私は誰からも(これは全員からということではなく、「一般的に」という意味)望まれて生まれてきた子どもだったから、両親だってそんな世の期待を受諾するにせよ反発するにせよ、影響を受けずにすませることなんてできっこなかったの。それとこれとは切り分けられない。だけど、ずっと訊きたいと思っていた。どんな返答を私が期待していたのか、いまとなっては少しも思い出せないけれど、私にもそういう思春期臭い悩みを持っていたことがある。いつか訊いたこともあるような気がする。ママンは私が小学校から帰ると、たいていは虚ろな目をしてテレビを眺めてた。テレビが相撲を映しているときだけ、ママンの隣に座っていっしょに観る。それはサイン、一緒に観ましょうね、という、今日は一緒にいても大丈夫、というサインだった。私が相撲を好むこと、その程度のことはママンだって知っていた。纐纈の着物を着たママンは最初に一言二言、私に挨拶と学校の様子を訊ねると、そのままテレビを見つめる、変わることのない虚ろな目、ときどき身体を震わせながら。ほんとにママンはテレビを観ているのかしら。小学校3年生か4年生までは、ママンと一緒に相撲を観るときは気を引くために、きちんと存在を確認するため(ママンはここにいる/私はここにいるよ)、汗でぬらぬらと鈍い光を放つ巨体がごろんと転ぶたびに、決まり手を教えてあげた。「いまの、うっちゃり」「上手投げだね」「寄り切り、かなあ」「勇み足だ、ママン、めずらしいね!」「下手投げ」「掬い投げだよ、ママン」「ねえ、ママン?」「ママン、ママン?」、横を見やるとママンは声も出さずに泣いている……透明な涙を流しながら、自らを肥満させた大男たちが投げ、投げ飛ばされる様子を、夕餉の時間がくるまで、ずっとテレビを通して観つづけた。たぶんママンは相撲なんて、テレビなんてべつに観たくはなく、陽がゆっくりと沈み込みつつあるその時間、もっと違うことをやっていたかったのかもしれない。
(つづく)